新菊舎慕情 1
  荻萩(おぎはぎ)(しづく)を菊の車かな   菊車
                              「改称賀章集」
 田上菊舎(本名 道)は、宝暦3年(1753)10月14日、長門国豊浦郡田耕村(現下関市豊北町田耕)に、長府藩士田上由永の長女として生をうけました。
 16歳で、近くの村田利之助に嫁ぎます。母方の親戚筋にあたる村田家の人々は、信仰心が篤く、俳諧をたしなみ、なごやかな暮らしをしていました。
 しかし、平穏な日々は長く続かず、24歳のとき、夫利之助が亡くなります。
 それから2年後の9月、長府の五精庵只山に自らの俳号を乞い、風雅に生きる決意を表します。
 只山は「千代女や園女のように、いままた、あなたも千里にその名を走らせるように・・」と、菊車(のち菊舎と改号)の号を授けました。
 闇夜に灯をいただいた心地の彼女の歓びが、冒頭句に窺えます。 
菊舎の婚家、村田家
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新菊舎慕情 2
  月を笠に着て遊ばゞや旅のそら         手折(たおり)(ぎく)
 夫、村田利之助亡きあと、子どものいなかった道(菊車)は、村田家に養子を迎え、長府に移住していた実家田上家に復籍します。
 稿本「手折菊」に「・・浮世に暇あく身と成ぬれば、天が下の名にあふくまぐま神社仏閣を拝詣せばやと思ひ立日を其儘に、ひとり旅路におもむきぬ」と記し、冒頭の句を置いています。
 風雨を凌ぐ舎よりも、風雅の世界をもとめた彼女は、再婚の道を選ばず、生涯を俳諧文芸に遊ぶ決意をしました。
 天明元年(1781)晩夏、菊車29歳。旅姿となり、諸国行脚に出立する彼女の弾む心が伝わる一句です。
一字庵菊舎碑
田耕促進センター
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新菊舎慕情 3
  吾笠に淋しさしめや蝉しぐれ
  染て行む筆柿の葉も茂り時          手折(たおり)(ぎく)
 親鸞聖人のご旧跡をめぐり、蕉風俳諧に生きると固い決意をした菊車を、誰も留めることは出来なかったのでしょう。
 旅に先立ち、美濃の宗匠朝暮園傘狂ちょうぼえんさんきょうあての添文をもらうべく、萩へむけて出発します。生誕地田耕の婚家や、近隣の人々にも出立の挨拶をし、長門大津の人丸明神に詣でました。明神の高い段をのぼると、眼下に響灘がひらけ、ひと休みする彼女に、蝉時雨が降り注ぎます。見上げると、柿本人麻呂にちなんだ少し先の尖った筆柿の小さな実が、葉っぱのなかに見え隠れしています。まもなく、この柿の葉も染まるでしょう。淋しさは淋しさとして、あまりあるもので染めていこうという意気込みがみえる俳句です。
人丸神社には今も筆柿があり、昭和47年、地元の俳人たちによって菊舎句碑が建立されました。
人丸神社の菊舎句碑
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新菊舎慕情 4
  秋風に浮世の(ちり)を払けり        手折(たおり)(ぎく)
 菊車は、静が浦を経て通港から萩へ向かいました。
 萩では清光寺(現西田町)の聞心院老師の導きにより得度し、「妙意」の法名をうけ尼となります。
 清光寺は、毛利輝元の正室清光院殿のため建立された浄土真宗のお寺です。女性の得度は、剃髪でなく断髪ではなかったかと思いますが、いずれにせよ、黒髪を截(た)つということは、女性を捨てることであり、感慨もひとしおであったことでしょう。優しかった夫、長府に残してきた父母、その他さまざまな過去をぷっつりと振り払っての得度でした。肌に心地よい秋風のように、さわやかな菊舎のこころと、これから始まる俳諧行脚への決意のあらわれた一句です。
 その後、竹奥舎其音を訪ね、朝暮園傘狂(美濃派以哉派六世道統)宛の添書きを得ました。
清光寺(現 萩市西田町)
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新菊舎慕情 5
  (やわ)らかに見られてすゝめ(おぼろ)(づき) 傘狂
 教えの春を笠にいたゞく 
菊車        手折(たおり)(ぎく)
 美濃の朝暮園傘狂に弟子入りし、種々の指導を受けた菊車は、傘狂から「信」の一字を秘める「一字庵」の号を授かりました。
 傘狂は、俳諧修行の旅の心得を諄々じゅんじゅんと説いて聞かせ、菊車の檜笠ひのきかさ「一日も旅なり花に着る笠は」の句を書き、頭陀袋には、やわらかに見られて進めおぼろ月」を記しました。
 後年、菊舎は「師の余光を笠に着て・・」と書いていますが、厳しくも慈愛深い傘狂を、生涯慕い続けた彼女でした。
 出立にあたり、美濃派連中への添文を受け、「奥の細道」の逆コースを辿るひとり旅に出ました。
口上 此菊車風尼事 祖師之旧跡貮十四拝之 志願を遂げ就而は風雅之 修行地をも勤度旨被 相願候間慥成添書にまかせ 暫美濃に留置及教示候 猶経回之先々及薄暮候はゞ 一宿之義御世話被下風雅 御聞せ被遣可被下候可祝 朝暮園 傘狂花押
朝暮園傘狂口上書(菊舎紹介の添書)
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新菊舎慕情 6
 通さねばよし(ここ)で聞郭公(ほととぎす)
 関の戸を叩ては鳴水鶏(くいな)
も我も      「手折(たおり)(ぎく)

 江戸時代、女性の旅人は、往来手形を所持していても、簡単に関所は通してくれなかったようです。頭陀袋をかけ、尼僧の姿はしていましたが、関所の番人に度々足止めをされました。一句目は、江州(近江)柳ケ瀬の関、二句目は福井細呂木の関で詠んだものです。郭公・水鶏ともに夏の季語ですが、水鶏はコツコツコツと戸を叩くような高声な鳴き声のため、古来より「水鶏たたく」と言われている水辺草辺にすむ鳥です。菊車の正直で、洒脱で、後へ引かない気概の感じられる俳句です。

関所図
手に乗せて関の戸越む
すみれ草
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新菊舎慕情 7
 花見せる心にそよげ夏木立    菊車
 破れし蚊帳(かや)に移る月影  
白烏     手折(たおり)(ぎく)

「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」と詠んだ千代女のふるさと松任を訪れた菊車は、千代女の跡を継いだ養子の白烏の許に一泊し、7年前に亡くなった千代女の在世中のことを親しく聞きました。同じ女性の先輩俳人として、千代女が生きていたならと残念に思ったことでありましょう。
 後年、菊舎と千代女は何かと比較されることになります。千代女は女性的で花に譬えれば桜、菊舎は男性的で花に譬えれば梅という見方であります。確かに、菊舎は交友関係を見ても男性が多いし、俳句も堂々としたものが多くあります。風貌はといえば、千代女は美人で、菊舎は鬼瓦であったと言い伝えられています。果してそうであったのでしょうか。

千代女木像
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新菊舎慕情 8
 長門なる菊舎が顔は鬼瓦    一俳人

菊舎は醜婦であったに相違ないと書いた人がいました。それは、うら若い女性が、再婚もせず旅から旅へかけ歩いて、時には男の人と同じ宿に泊まり、誘惑もされずにいたことからも窺われるというのです。しかし、そのような誤解の発端は、美濃で修行中の彼女に対し、地元の俳人が、たわむれに
 大鳥の中とも知らず行々子
と、詠みかけたところからです。菊舎は即座に答えました。
 もまれてかほる宇治の茶むしろ
すると
 つくたびたびに汁がじわじわ
菊舎は直ちに答えました。
 山寺の鐘の撞木が生木なら
すると又
 長門なる菊舎が顔は鬼瓦
菊舎の答えは次のものでした。
 世の俳人は下に見るかな
こんな逸話から、「菊舎が顔は鬼瓦」の醜婦説がでたのでしょうか。

お多福図
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新菊舎慕情 9
  世の俳人は下に見るかな  菊舎

田舎者の菊舎を困らせようと、からかった美濃の俳人たちに、一歩もひけをとらなかった菊舎て゛した。この逸話は彼女の面目を躍如たらしめています。
 菊舎の顔が鬼瓦と言い伝えられていることについて、私は60代ごろの菊舎であろうと察せられる似顔絵を見ました。ただそれが菊舎であるという証拠がないのが、誠に残念です。決して醜婦ではなく、柔和な面ざしと聡明な眼差しに魅了されてしまいました。
 江戸中期の随筆家神沢杜口とこうは、30代の菊舎を評し「容貌醜きにしも非ず又艶ならず、偏に男子の如し」と『翁草』に記しています。
 それにしても、男女貴賎を問わず、旅の先々で愛された彼女の面影がしのばれる似顔絵でした。

美濃朝暮園傘狂邸址の案内板(岐阜県不破郡垂井町)
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新菊舎慕情 10
  姨捨た里にやさしやほとゝぎす    「手折菊」「笈の塵」
 千代女の故宅を訪ねた菊車は、その後、金沢・能登・越中・越後と北上します。善光寺の参詣を果たし、美しい更科の月を賞でようと、ひとり姨捨山に登りました。
 ところが、一天にわかにかき曇り、大雷雨に見舞われました。山も崩れんばかりの怖さに岩間に身をちじめ一夜を明かしました。菊車が、前日山に登っていくのを見ていた麓の農夫伝五郎は、下山しない彼女の身を案じて捜しに行き、家に連れ帰り、夫婦して親切を尽くしました。
 この里は、姨捨て伝説の地であり、夫婦から受けた情けにこころを打たれて詠んだのが、前掲の一句です。
 稿本「手折菊たおりぎく」と「おいちり」にこの一件を記していますが、読み比べると実に面白いです。
姨捨十三景図
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新菊舎慕情 11
 月も涼し(この)(おば)石に心添え    (おい)(ちり)
 姨捨山には、観月の名勝として松尾芭蕉もたずねた放光院長楽寺(天台宗)があり、すぐそばには、古来より「田毎たごとの月」と呼ばれてきた棚田がひろがっています。
 境内には桂の大樹や、「芭蕉翁面影塚」もありますが、"姨捨十三景"のひとつで、高さ十丈(約30メートル)の巨岩・姨石が圧巻であります。
 天明2(1782)年6月11日夕刻、姨捨山にのぼった菊車は、その昔、姨が身を投じたという姨石に寄り、ひたすら鏡台山に上がる月を待ちました。
 ところが、彼女の期待に反して雨が降りだし、風も加わり、荒果てた小さな堂に一夜を明かしたと、「おいちり」には記しています。「手折菊たおりぎく」では、いなびかりも加わり、岩の狭間に身をちぢめて、夜明けを待ったと記しています。果たして、どうだったのでしょうか。
姨石と観音堂
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新菊舎慕情 12
 (おば)石をちからに更て月すゞし 手折(たおり)(ぎく)
 今回(2006年11月末)、筆者は菊舎の足跡を追って信濃(長野県)を訪れました。なかでも、姨捨山は歴史文学的な景観はもちろん、224年の時空を越え菊車の息吹を感じ、興奮してしまいました。彼女が見たであろう、触れたであろう山川草木・塚・岩・木・堂・・そのすべてが、とても感慨深いものでした。
 さて、俳諧紀行文「おいちり」は30歳の作で、堂で夜明けを待つ彼女に、鶏一羽が寄ってきます。「手折菊たおりぎく」は、60賀に出版しますが、お堂ではなく岩かげで一夜を明かすと、少し恐ろしげに脚色を加えているようです。いずれにしても、菊車にとって忘れがたい姨捨山の出来事であり、里人のやさしさに泣いた更科の旅でありました。
姨捨の棚田(千曲市観光パンフより)
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新菊舎慕情 13
 しばらくは罪も忘れて月涼し  (おい)(ちり)
 6月8日夕方、雨の中ようやく善光寺にたどり着いた折の一句です。その後、姨捨山にのぼり、伝五郎や里人と交流し、名残惜しくも小市川の渡しに行きました。
 しかし、このうちからの大雨で船は通わず、宿をとる路銀もなく途方にくれている菊車に、またも村人が家にお泊りと誘ってくれました。「六道のちまたを助られし心ちにて・・一樹の影も他生の縁、是不浅ぬ因縁か」と、手持ちの短冊一枚に句を書いて渡しました。
 それから、また善光寺にもどり、祇園会の踊りを見物後、仁王門側の堂照坊をたずねます。ここは、親鸞聖人が百日逗留されたご旧跡で、くま笹の葉に墨を染め、これを並べて六字のお名号を書かれた"笹文字の名号"がありました。菊車が拝したであろう"笹文字の名号"は、今では判読できぬほどですが、お厨子に納められていました。
親鸞聖人御染筆
「笹文字御名号」
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新菊舎慕情 14
 笠ぬげば互に涼し関の月  (おい)(ちり)
 6月14日、善光寺の里の百嫁に招かれ、菊車は一晩そこで過ごします。そして翌日、柏原に向いますが、とても暑くて馬に乗りました。
 一週間ぶりに明願寺に帰ると、親鸞聖人御旧跡巡拝の尾州の風雅僧智旭坊が、菊車の帰りを待っていました。明願寺は、親鸞聖人御旧跡終北山明専寺の山内にあるお寺です。明専寺は小林一茶の家からも近く、小林家の菩提寺でもあります。菊舎(1753年〜1826年)と一茶(1763年〜1827年)は、同時代に俳諧修行の旅をした俳人でありますから、ひょっとしたら接触していないかと興味はつきません。菊舎がこの地を訪れた天明2年、一茶は江戸に出ていて、残念ですが、現在のところ、直接交流の形跡は見当たりません。
一茶の菩提寺 明専寺
一茶記念館HP
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新菊舎慕情 15
 見て居れば踊たふなる踊かな  手折(たおり)(ぎく)
 立秋には、
   秋たつや波も木の葉も柏崎
と、柏崎に入った菊車は、その後、新潟の里竹庵に泊まります。ちょうどお盆で、早速、盆踊り見物に出かけました。ところが、この地の盆踊りは大変奇抜なものであったらしく、尼の菊車も、冒頭句のように思わず踊りたくなってきました。
当時の新潟風俗を描いた「蜑の手振り」を見ると老若男女が思い思いに仮装して、身振り手振りもおかしく、夜もすがら町じゅうを踊り歩き、なりわいも忘れるほど楽しんだ様子がよくわかります。
俳諧で踊りといえば盆踊りを意味し、秋の季語となっています。この句は、天真爛漫な彼女の素顔が窺われる楽しい一句です。
(あま)の手振り」
―新潟郷土資料館提供―
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新菊舎慕情 16
 関の渡辺氏一陽斎に舎り雅会あり、此所に数日杖をとゞめぬ
                「手折(たおり)(ぎく)
 「奥の細道」の跡を尋ねる旅の道中、菊車が何より大切にしていたのは、出立にあたって師の傘狂が「・・一宿之義御世話被下、風雅御聞せ被遣可被下候」と、各地の美濃派宗匠宛に書いて下さった紹介状であります。これを頼りに歩いていたことが、随所に見出されます。新潟で泊まった里竹庵は傘狂紹介状にある可狂であり、続いて滞在した関の渡辺家も紹介状に李郷と出ています。
関の渡辺氏は、村上藩の郡奉行をつとめた大地主で、米沢街道に面した関川村下関にいまも豪壮な屋敷構えが残り、国指定重要文化財となっています。冒頭の渡辺一陽斎東葵は、俗名儀右ヱ門といい、李郷の跡を継いだ人物です。それにしても、菊車が同座した俳諧記録の発見が待たれます。
渡邉邸
新潟県関川村下関904
(資料提供 渡邉家保存会
渡邉邸はNHKドラマ「蔵」
のロケにも使われた。
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新菊舎慕情 17
 稲干ておだやかな世や陣の原     「手折(たおり)(ぎく)
 関の渡辺邸を辞した菊車は、峠を越え出羽国(山形県)の小国に着きます。ここで暫く、五松先生に書の指導を受けます。
 その後、米沢を過ぎ中小松から小出まで馬に乗ります。しばらく行くと、広い荒原に出ました。「ここは陣の原・・、八幡太郎こと源義家の古戦場・・」と、馬子が言います。いかにもやつれた姿の馬子が、縄帯の間より紙を一枚取出し、鞍の前に挿しはさみ、菊車に発句を所望しました。これは彼女にとって意外なことであったらしく、「手折菊」に「・・かゝる浅間なる人の見かけによらずと感じ感じて」と、前掲の一句を書き与えました。
現在、この地は桜の名所となっているようです。
 「釜の越桜」
山形県白鷹町高玉
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新菊舎慕情 18
 読みなをす文や(すす)掃く片手にも    「美濃経廻ふたゝび杖」
 その後も各地の美濃派宗匠を訪問しては雅会を重ね、山形に着き、藩士岡村氏の母堂花遊庵文絽尼宅に数日滞留しました。文絽風尼は、朝暮園師の門弟であり女同士ともあって、殊に親しみが深く、江戸に行ったら自分の姉妹を尋ねるように勧めました。江戸到着後の菊車は、勧められた通りに板倉婦人琴松を訪れ、以後親しく交遊します。菊舎が江戸を出立する天明4年4月25日には、手ずから笠の紐をつけて「飛ぶ身なら又めぐり来よ時鳥」と、再会を約しています。
以後、文絽は菊舎の旅の先々に、心のこもった便りを送りました。冒頭句は天明7年暮、美濃滞在中に届いた文絽の便りを手にした折の俳句です。
稲干ておだやかな世や陣の原 山形侯の家士、岡村氏の北堂、文絽風尼は、其親しみ殊に深く、数日滞杖、旅情を慰む。爰に白雪盧風五とて、俳諧にひたぶる好者有。夫婦ともに此道に耽りしまゝ、其家にも四五日滞杖、贈答付合句数有。其より立石寺といへる山刹を尋ぬ。此寺は蕉翁の、「岩にしみ入蝉の声」の高吟世に聞えし所也。甚清閑寂寞の地にて、巌かさなり、苔ふり、所謂、空翠庭陰に落る情有。踏しめて登るも清し霜の花其後、二口越にかゝり、行暮て道を失ひ、終夜山をさまよひ歩きぬ。山中や笠に落葉の音ばかり 
手折菊(花)より当該頁
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新菊舎慕情 19
 月や澄ん心の奥の細道も    風五
 待受けて野山の錦問ふ日かな 白糸 
 「水蛙集」                   
 天明2年4月、傘狂が菊車に渡した紹介状の宛名の最後は、出羽の風五です。
菊舎は『手折菊』に「俳諧にひたぶる好者有。夫婦ともに此道に耽りしまゝ、其家にも四五日滞杖、贈答付合句数有」と、簡単に記しています。
近年、風五の句日記『水蛙集』に、菊車の訪問が記されている事を知り、その時の様子が明らかになりました。

 「・・長州なる菊車信尼は、往返千里の長途を遠しとせす、鸞祖の旧蹤を拝み巡り、俳社の風人を尋訪ひ、尚はた松嶋・蚶潟に故翁杖の跡をゆかしみつゝ、丈夫にまされる風雅のやつれをかへすかへす感し侍りて・・」と、伴侶の白糸とともに長旅の菊車をあたたかく迎えました。
冒頭は、その折の挨拶句です。
 
小林風五肖像
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新菊舎慕情 20
 世の花をあつめ祝はむ父の春
                           「手折(たおり)(ぎく) 
 風五は本名を小林喜左衛門といい、当時、山形の代表的俳人でありました。また、老舗富商としてもぬきんでた存在でした。
 風五の『水蛙集』には、残念ながら、菊車の俳句は載っていませんが、菊車が父の耳順祝いに、二人に俳句を所望したことが記されています。
 この年の春、美濃に居た菊車の許に、長府の父から、「むかふ卯年は余が齢耳順に及びぬれば、早くも巡りて帰るべし。帰らぬ程は年賀をもせまじ」と、せつせつとした書状が届いていました。
 それを読んだ彼女は父の慈愛に胸を打たれたものの、江戸へと向かいます。せめては、旅の先々で賀章を集めて、『父の春』と題した還暦祝いの小冊を、父に贈ろうとしたのです。
 9月29日、風五、白糸に見送られ、菊車は山形を出発しました。
 
菊舎両親図
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新菊舎慕情 21
 踏しめて登るも清し霜の花
                           「手折(たおり)(ぎく) 
 山形を出立した菊車は、芭蕉の「閑さや岩にしみ入蝉の声」で有名な立石寺(山寺)に詣でました。元禄2年(1689)、46歳の芭蕉は曾良を伴って、この寺に登っています。その跡を慕って、93年後の冬、菊車はひとりで、物音ひとつしない静まりかえった山寺に辿りつきました。一歩一歩、霜を踏みしめながら段を登る足音とともに、芭蕉の面影を追憶しつつ、風雅に生きる決意を新たにしている菊車の姿が浮かんできます。
生涯,芭蕉の心を心として貫き通した俳尼菊舎の立石寺での清清しい一句です。
 
菊舎顕彰会所蔵 文流斎筆 芭蕉像
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新菊舎慕情 22
 山中や笠に落葉の音ばかり
                           「手折(たおり)(ぎく) 
 その後、仙台へ出るため最短距離の二口峠を越えることにしました。ところが行き暮れて道を失い、一晩じゅう山をさまよい歩きます。尼僧とはいえ、うら若い彼女のやりきれない淋しさが、切々と伝わってくる俳句です。「心細さのただ独り、寂寞(せきばく)無聊(ぶりょう)の限りなし・・」と、裏日本の山々を越す女の一人旅のあわれな風情が目に浮かんできます。当時の女の旅は、関所以外にもさまざまな苦難がつきまとい、この時も、暁に人家を見つけて戸を叩きますが、見捨てられ、次の家でやっと内に入れてもらい、火をもやして親切をうけることができたのです。
  山形・宮城県境の二口峠

「クマがいます」の注意書きがある。
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新菊舎慕情 23
 松島や小春ひと日の(こぎ)たらず
 指出る朝日()ばゆし金華山
     「手折(たおり)(ぎく) 
 仙台名取郡を経て、千賀の浦より、日本三景の一つ松島湾の舟遊びを楽しみました。松島は、芭蕉がその美しさの前に、一つの発句も出来なかったという絶景ですが、菊車は沖の金華山の句も詠み、それを奥州一の宮の塩竃明神へ奉納しました。
 それから、「今眼前に古人の心を(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び・・泪も落つるばかりなり」と、芭蕉が感動した多賀城の壺の碑・八幡の沖の石・宝国寺裏の末の松山と、菊車も歌枕の跡を辿りました。その後、宮城野、仙台、白石、伊達の大木戸、あね葉の松、埋木、忍摺、葛の松原、白川の関、下野那須野原と進み、日光へと向かいます。
松島図

松島や小春ひと日の漕たらず
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新菊舎慕情 24
 雪に今朝まじる塵なし日の光
 鐘氷る夜や父母のおもはるゝ
     「手折(たおり)(ぎく) 
 4月に美濃を旅立ってから、早や8ケ月。日光山は雪です。芭蕉は陽暦519日、日光東照宮を参拝し、「あらたふと青葉若葉の日の光」と詠みました。これをふまえた菊車は、雪にかがやく東照宮の光景を、「雪に今朝まじる塵なし」とすがすがしく称えたのが冒頭句です。地名の日光を「日の光」に掛けて挨拶しているのは勿論、東照宮の威光まで感じられる俳句です。2句目は、日光山の鐘の音にしきりと故郷の父母のことがしのばれた寒い夜の作です。昭和48年、ふるさと下関市長府功山寺に、「鐘氷る」の句碑が建立されました。
菊舎句碑 功山寺

鐘氷る夜や父母のおもはるゝ
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新菊舎慕情 25
 そふかそれよ何とはひでも都鳥
                           「手折(たおり)(ぎく) 
 松尾芭蕉は、曾良を伴い約5ケ月をかけ「奥の細道」の旅をしました。それから93年後、菊車は親鸞聖人と芭蕉を偲びながら、ご旧跡をめぐりつつ「奥の細道」の逆コースを、ひとりで歩き通しました。美濃出立以来、約9ケ月をかけて年末江戸に到着しました。目指す同門の野村白寿坊(のち美濃派獅子門以哉派七世)宅を前に、隅田川の都鳥(ユリカモメ)を見て、
「はるばる陸奥の方よりめぐり来て、隅田川をわたれば、何となく郷に帰りし心地こそすれ」と記し、在原業平の古歌を踏まえて、掲句を詠んでいます。このように、菊車は芭蕉のみならず、あらゆる古典文学によく通じ、独自の新しい世界を開いていくのです。
三囲(みめぐり)神社
(東京都墨田区向島)

天明3(1783)年
3月に訪れている。
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新菊舎慕情 26
 爰に道の恩をふくみて筆はじめ 菊車
 香はうすくとも貸す梅の窓  信我
             「初日の出」 
 美濃の宗匠大野傘狂の紹介状を頼りに、下谷の野村信我宅まで辿り着いたものの、年越しと正月をどこで過ごしたものか思案に暮れる菊車に、信我の一家は「ここにいなさい」と優しく留めました。
 信我は、幕府の御家人で、白寿坊道元ともいい、のちに美濃派(以哉派)七世宗匠となった人物です。菊車より十四歳年長で、江戸滞在中は菊舎をさまざまな集まりに連れ歩いては紹介し、彼女の大きな後ろ盾的存在でした。
 冒頭句は、信我に筆の手ほどきをしてもらった正月の作です。現在、遺っている信我の筆跡は、菊舎の筆跡と見まがうほどで、菊舎のものと苦労して解読したのが、徒労だったと苦笑された故研究家があったほどです。それほど、信我の教えを従順に受け入れたと云うことでしょう。
白寿坊書状断簡
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新菊舎慕情 27
  花に遊ぶやくそくむなし野辺送り             『初日の出』
 菊車は、江戸で懐かしい萩藩士の竹奥舎其音と再会を果たし、方々から雅会や茶会に招かれることが増えてきました。そんな頃、道元居信我の愛娘が亡くなります。去年の暮れから、菊車にまつわりつくほどなつき、春になればあちらこちらの花見に行こうと約束をしていた女の子です。その野辺送り「斯かなしきありさまのなみだも袖にあまれるより」と記し、子ども好きの菊車の悲嘆ぶりが、せつないほど偲ばれてなりません。
 その後、住まいを麻布六本木の木工屋作左衛門宅へ移し、長門萩へ帰る其音を見送ることになります。別れにあたり涙ぐむ菊車を見て「さすがおふなのこゝろよわきをいさめるも、又むねつまりて顔をそむけ・・無事を告に行雁とおもひあきらめよ」と、其音も名残が尽きませんでした。
 『長州萩藩主参勤帰国動静一覧』によると、前年隠居した藩主毛利重就が、3月6日に萩に向け江戸を出発していますので、藩士の竹奥舎其音も、この日、江戸を出立したと思われます。
信我白寿坊の建てた上野不忍池弁天堂境内にある「芭蕉碑」
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新菊舎慕情 28
  船は着ど尽きぬ名残やすみだ川             『初日の出』
 その後、浅草寺に詣でた菊車は、そのまま浅茅(あさぢ)(はら)に杖をひき、そこの渡し場から船で向島に渡りました。
 向島には謡曲や浄瑠璃の題材となった「梅若伝説」のある天台宗の古刹木母寺(もくぼじ)(梅若塚が境内にあった)があり、毎年3月15日の梅若忌には大勢の参詣者で賑わったといいます。菊車が訪れたのも、この日かもしれません。
 三囲(みめぐり)稲荷社あたりを巡っている内に、夕暮れとなったようですが、ここには蕉門十哲の一人宝井其角が干魃に苦しむ村民のために詠んだ雨乞いの句碑があり、きっと彼女も佇んで見たことでしょう。春の夕日は容赦もなく傾き、名残惜しくも又、隅田川を渡って帰らなければなりませんでした。冒頭の「すみだ川」の一句から、彼女は「菊舎」と改号しています。
※ 付
「菊車」から「菊舎」への改号の背景は、『研究ノート3号』(4月1日発行)に詳しく掲載しています。書籍情報をご覧ください。
三囲神社(東京都墨田区向島)にある宝井其角、
()ふた()や田を見めぐりの神ならば」の句碑。
この句碑は最初、安永六年(1777)に建立され、摩滅したので明治六年(1873)再建されたもの。
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新菊舎慕情 29
  頭陀の限り見せん涼しい師の前に             『師の前に』
 天明3年5月、美濃竹中家の家臣である師の朝暮園傘狂が江戸に出てきました。前の年の4月、美濃岩手の傘狂のもとを出立して一年余り、菊舎は急いで傘狂の旅窓を訪れます。そして、頭陀袋中の師の紹介状をたよりに巡ってきた北陸・奥羽の旅の出来事や、江戸での修行の数々などを息急き切つて話すのでした。久しぶりの再会に飛び上がらんばかりの菊舎の喜びが、掲句から伝わってきます。
このころから、菊舎は傘狂の宿舎に近い麻布六本木の露木文十(嘉藤次)宅の二階四畳半に移ります。文十は、傘狂と同じく美濃竹中家の家臣ですが、江戸常勤で官舎をあてがわれていたのでしょう。狭いながらも庭には植え込みがあり、この住まいから一年間、師のもとで猛烈な俳諧修業を続けることになります。
 文十宅の近くにあった、長府毛利家の上屋敷跡に建つテレビ朝日本社と毛利庭園。(東京都港区六本木6−9)
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新菊舎慕情 30
  十徳のひなはなけれど雛の世話             『初手水』
 美濃派宗匠の傘狂を迎えた江戸では各所で俳莚や茶席がもたれ、菊舎は連日のようにその席に連なり、忙しいほどに修行の日々を重ねていました。  掲句は、天明4年上巳、竹中家の雛祭りに招かれ、そこの姫君より愛らしい雛を貰ったときの菊舎の句ですが、楽しいのは同座の俳友達の俳句です。
漂泊の身の旅ながら、人並みに雛かざりしと悦びたはぶれる菊舎尼を笑ひ興じて
「剃た気のかわりはせぬかひなかざり」 「しほらしや貰ふた雛を只置かず」「とりあへぬ雛のもふけか頭陀の上」 「姿には似ねどやさしさ雛の世話」・・
師匠や同門俳人に囲まれ、はしゃいでいる菊舎の姿がほほえましく浮かんでくる俳句の数々でした。それにしても、当時の美濃派の繁盛ぶりには目を見張るものがあります。
「双鶴梅樹文 十徳じっとく
菊舎の遺品、生地は紗。当時儒者・医師・絵師・俳諧師・茶人などの礼服として用いられた。
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新菊舎慕情 31
  荷ひ行かんあれ是の恩夏ながら             『初手水』
 4月、傘狂の美濃への帰国を機に、菊舎も帰郷を決心し、随所で送別の雅莚がもたれました。江戸に着いたその日から、一かたならぬ世話になった道元居を訪れ、姉妹のようにつきあった婦人とも別れの一夜を過ごし名残は尽きません。また、定宿の主である露木文十は「家族もいささか客とおもはず、吾も中々他人とおもはで、あるは叱つあるは笑ひつ、誠に希有のむつましさなりけらし・・茶漬と煎餅のいとま乞をふるまひ、頭陀と杖とのそれぞれをわたして、山川万里恙なかれと別離の涙の一雫をぬぐひ・・」と、迫る別れを詠んでいます。

 笠着せて見れば涼しや形ふりも  文十
 影は忘れじ卯の花の晴  菊舎

菊舎32歳、風雅に没頭した足かけ三年の江戸の暮らしを終え、4月25日、多くの人々に見送られつつ江戸を出立しました。
道元居の墓
  東京都港区六本木
「円林寺」
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新菊舎慕情 32
  涼しさのくらべ物なし富士おろし        手折(たおり)(ぎく)
 古里へ向けて出発した菊舎は、「五十三次見てのぼる幟かな」の句のように東海道を、大磯、鴫立沢、箱根、三島と歩を進めて行きます。道中、浦島の塚・とらが石・箱根権現・三島明神など名所旧跡を巡り句を詠みながら、富士山のふもと吉原に宿をとります。冒頭の俳句は、その折りのものです。この年(天明4年)1月、故郷では父の田上由永(61歳)が長府藩の御書物方を退役し、家督を弟の多門次(16歳)に譲りましたが、10代藩主毛利匡芳に医術の心得のあるのを見込まれ、御馬廻り御側医師として再び仕えることになり、剃髪し本荘了左と改名します。ここに、田上家と本荘家が成立し系図が分かれますが、菊舎はそのまま田上の姓を通しました。それにしましても、菊舎の父親が75歳までの58年間にわたり歴代藩主に仕え、大活躍した藩士であったことが最近になって判り驚きました。
晩年に描いた富士画賛
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新菊舎慕情 33
  うけとらん汗じみ物のふり濯ぎ            『初手水』
 取り締まりの厳しさで有名な箱根と今桐(新居)の関所も、江戸の知人から貰っていた書き物(往来切手か)のお陰により、障りなく越えられた菊舎は、江戸に向かって手を合わせうれし涙にくれました。
 それから、佐屋街道を通り師の傘狂よりも早く美濃に着き、政田村の庄屋で兄弟子の高木百茶坊宅に落ち着きます。
 5月17日、一日千秋の思いで待った師の傘狂がようやく帰庵して、互いの無事を喜びあいました。長旅で汚れた師の衣を受け取り、いそいそと洗う菊舎でした。「師の傍らに侍る事、生涯の本望といふべし」と彼女が記すほどに、大野傘狂は厳しくも慈愛にあふれた師匠であったようです。
睦まじい子弟関係のうかがわれる掲句です。
 それから、美濃を出立する8月16日まで、菊舎は長良川の鵜飼いや養老の瀧、谷汲山などにも出向き、近郷の連衆らと日夜俳諧に精を出していますが、美濃滞在中、お茶の道にものめり込むことになります。
「東海道五十余駅画賛」
新居の宿  菊舎筆
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新菊舎慕情 34
  帰る晴も月に教への菰一枚             『初手水』
 江戸で師弟のちぎりを結んだ千家流の茶人伊藤宗長(旗本竹中氏の家老職)が美濃に帰郷していることを聞いた菊舎は、伊藤家を訪れては熱心にお茶の手ほどきを受けました。
 美濃派の俳人として、嗜み程度のお茶ならば許されたでしょうが、その後の菊舎の茶事に対するのめり込みようは、目に余るものがあったようで、のちに、兄弟子の百茶坊から「茶は自己のたのしみ、俳(諧)は世上の和を導き候大道にて御ざ候」と苦言の書簡を受け取ることになります。
 この顛末は、次回に紹介することにして、8月15日、傘狂はじめ多くの門弟が不破に集まり、月見の雅莚と故郷へ帰る菊舎の餞別会が行われました。傘狂の「帰郷して父母に孝養しなさい」との言葉に従い、名残惜しくも美濃を発つことになった菊舎は、冒頭の句を詠みます。兄弟子の百茶坊は「つゝと帰れ月や花野に目もふらで」と、長門の両親の許に一日も早く帰るよう諭して菊舎を見送りました。
高木百茶坊句碑【余浄寺】と
高木家にある菊舎も使った思われる大きな手水鉢(岐阜県本巣市真正町)
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新菊舎慕情 35
  今さらに遊びし風が身にしみぬ            『俳諧旅情集』
 京都に着くと、美濃の傘狂や百茶坊の「一日も早く父母の待つ故郷に帰れ」という忠告を忘れたかのように、またもや道草をして故郷に着くのが遅れました。
 京における菊舎の風遊ぶりが耳に入った美濃の百茶坊は、厳しい叱責の手紙を菊舎に出しています。
 「貴尼御下りの節、京都家元(千家)にて茶事の賞美致され候よし、御本懐に存じ候。挨拶の即吟も御出来に御ざ候。扨、申入候は茶事も格別の御たのしみと申しながら、それに御こりに成られて(中略)申さば茶は自己のたのしみ,俳は世上の和を導き候大道にて御ざ候。(中略)何につけ角につけ、自己の御慎み肝要に存じ候。老のくり言としりつつ、隔て無く申し進じ候」
この兄弟子の苦言、菊舎にはどう響いたでしょうか。
菊舎に宛てた百茶坊の書簡
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新菊舎慕情 36
  あんじさせたわびも是から夜長夜長           『俳諧旅情集』
 傘狂高弟の百茶坊は、菊舎の何事にも徹底して打ち込んでいく性格を見通して、俳諧を第一にせよとの思いから苦言を呈したのです。叱責を受けた菊舎は、しばらくは深入りするのを自重していたかもしれません。しかし、お茶をあきらめたかというとそうではなく、百茶坊や傘狂が亡くなってから後の寛政6年には、茶道千家十職の塗師中村家の五代宗哲から黒漆の棗(茶入)を贈られ、堀内宗心らを招いて茶席を設け、宇治の茶師上林道庵らとも親しく交流した菊舎でした。74年の生涯を閉じるまで、茶事とは縁が切れない彼女でした。
 風雲流水の旅に身をまかせて、4年ぶりに故郷の家に帰ってきた菊舎が、頭陀をときながら詠んだのが冒頭の句です。
宗哲作 黒漆棗
底に「寛政六甲寅仲夏造之 贈一字庵主 宗哲花押」
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新菊舎慕情 37
  生れかへた心に明つ花の春
  両の手に乗せて給仕や薺粥          『手折菊』
 長府に帰った菊舎は父母の許で、天明5年の正月を迎えました。彼女の帰りを待ち望んでいた家族の喜びは大変なものでした。弟の多門次(今始)は、すでに田上家の家督を引き継ぎ

〜けふや明日やとまちわびおもひし はらからなる一字庵主人帰宅有しをよろこび興じて〜
待得たり其香習はむ年の梅

と姉を迎え、留守中の話も弾みました。
 殊に名も本庄了左と変え、御側医として今も藩主に仕えている父由永の剃髪姿には、菊舎も驚いたことでしょう。なにはともあれ、1月7 日の七草の節句薺を摘み、粥を炊き、日頃の親不孝を詫びるがごとく、かいがいしく両親に仕える菊舎でした。
菊舎の弟多門次(今始)の句書
菊舎の弟多門次(今始)の句書
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新菊舎慕情 38
  暦にもなる程さふか冬至梅          『栗の首途』
 菊舎はしばらく長府の父母の許にいましたが、晩夏には生誕地田耕(現下関市豊北町)を訪れ、それから、萩を経由して、生雲(現阿東町)に着きます。この地の謙亭斎三思は、高木百茶坊とも因みがある美濃派俳人で、その邸に菊舎は笠を脱ぎました。

   書付もゆかし因の雪の笠   三思
   おなじ恵に冬かれぬ縁    菊舎


 菊舎の脱いだ笠には、「奥の細道」の旅立ちにあたり、傘狂のはなむけ句「一日も旅なり花に着る笠は」が書付けてあったことでしょう。地元俳人たちの親切なもてなしを受け、11月から冬至まで生雲に滞在しました。
「俳は世上の和を導き候大道にて御ざ候。(中略)何につけ角につけ、自己の御慎み肝要に存じ候」という、百茶坊の苦言が効を奏したのか、菊舎はこの後も各地で盛んに俳筵を催して、百茶坊が勧める芭蕉や傘狂のご恩に報いる俳諧の伝播に力を注ぎました。
下関市長府印内の菊舎旧宅跡
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新菊舎慕情 39
  何もかゝで渡る硯の海すゞし          『手折菊』
 天明6年、傘狂の命を受けて、美濃から訪れた高木百茶坊に誘われ、豊浦・萩を経めぐり、7月には九州の旅に同行しました。この旅は、美濃派の俳諧を広め、派内の融和を図ることが目的でしたので、連日のように各地で俳諧興行がもたれました。稿本「つくしの旅」を見ると、百茶坊と菊舎を迎えた連衆達の喜びと熱気が伝わってくるようです。ごたごたしていた派内をまとめ、美濃派の勢力が、着実に九州の地へ広まっていったのも、百茶坊や菊舎の力に負うところが大であったと思われます。
 掲句の「硯の海」とは、関門海峡の別名で、その呼称は、戦前、阿弥陀寺の側にあった“薄墨の松”に由来しているという説があります。門司(文字)の関を覆う、赤間の薄墨の松を連想しての、なんとも風流な呼び名です。
五点貼交自画賛より
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新菊舎慕情 40
  重ね汲むや菊月の酒末長ふ          『九州行』
 天明6年(1786)9月末、筑前藩の儒学者亀井南冥に、はじめて博多で対面しました。菊舎34歳、南冥44歳の出会いでしたが、「末長ふ」と菊舎が願った通りに、終生親しい交わりをもつことになりました。
南冥は、徂徠学や医を修め、福岡藩の儒医に抜擢され、のちには、藩校の祭酒(大学頭)となった人物です。菊舎は彼の弟崇福寺住職曇栄(幻庵)禅師とも大変親しくこの兄弟と、たくさんの漢詩をやりとりしています。菊舎51歳の3度目の九州行脚の時も、南冥を訪れ、画や七弦琴に興じ漢詩の応酬などして、ともに姪の浜に遊びました。しかし、その11年後、南冥は焼死という悲しい最期を迎えたのです。
菊舎は40歳を過ぎてから漢詩を学びはじめたのですが、その熱心さに、ある人は明服を仕立てて贈ったというのですから驚きです。
崇福寺住職曇栄(幻庵)の書
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新菊舎慕情 41
  うしろ楯も堅し岩手に待春は          『ふたゝび杖』
 一年に及ぶ九州行脚を終えた菊舎は、道中を供にした美濃の高木百茶坊を同道し、長府の両親の許に帰着しました。菊舎の母の歓待をうけたのち、帰途につく百茶坊を送って、ふたたび菊舎も美濃へ旅立ちました。重任を果たして帰って来た二人を迎えた大野傘狂の喜びはいかばかりであったでしょう。

 言わず聞かず炬燵に寝せん旅戻り  傘狂
  なを着る恩に寒さ忘るる     百茶坊
 替りなし炉に寄る恩の心味     菊舎

 冒頭の句にも、傘狂という堅いうしろ楯があってこその自分だという、師の恩情に対する彼女の深い感謝の心持が、よく現れております。
傘狂が仕えていた竹中氏陣屋
−岐阜県不破郡垂井町岩手―
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新菊舎慕情 42
  千金の今宵や花の相宿も          『ふたゝび杖』
 天明7年11月に傘狂亭に到着した菊舎は、その後、近郷を経めぐり同門の人々と俳席をかさねます。そして、翌年の春、藩士の弟今始(多門次)と関が原で出会い、傘狂邸に連れて行きました。俳句をたしなむ弟を、美濃派の宗匠に引きあわせておきたいという姉としての配慮もあったことでしょう。故郷をはるか二百里隔てた美濃の国で再会した姉弟は、宿を共にして家族の話などに時の立つのも忘れる程の一夜でした。

 進み過な花咲く頃の初旅路  菊舎

 と、江戸行きの公務に初めてつく20歳の弟に、別れの一句を与えて見送りました。
菊舎はもちろん、傘狂をはじめ百茶坊や美濃派社中の人々とまみえることができた今始は

 しばしでも着つれて嬉し花の笠  今始

 と、その喜びを表しています。
今始の江戸行きに際して俳友の餞別句
頓て聞ん東風のたよりに無事の伝手
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新菊舎慕情 43
  またも世にうき草の身の手向事
   教へられて新茶汲むみしも夢なるか       『ふたゝび杖』
 天明8年(1788)、近江の柏原妙(明)源寺において、夫利之助の十三回忌と姑の年忌をつとめます。 一句目は夫をしのび、二句目は実の子のように慈しんでくれた姑をなつかしみ、心ばかりの法事を営んだ菊舎でした。それから、西山の源中納言具行の塚・長沢の里・醒井の三水四石と古跡見物をします。
 醒井の三水の一つ、地蔵水は日本武尊が伊吹山の大蛇の毒気に当たった時、石に腰かけこの水で熱気をさましたといい、また一つの西行水は、西行に一目ぼれした茶店の娘が、西行の飲み残した茶の泡を飲んだところ男の子をみごもり出産し、それを聞いた西行が「わが子なら元の泡にもどれ」と唱えたら泡に消えたという興味深い伝説があります。そんな故事に思いを馳せて名水に遊んだ菊舎をしのび、私も醒井の三水四石を訪れましたが、梅花藻(ばいかも)やハリヨが生息している清らかな流れにとても感動しました。
西行の泡子塚
名のみ残る文字さへ苔の花がくれ」  菊舎
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新菊舎慕情 44
  遊ぶ気のあれも揃ふて友千鳥          歳旦帳『長陽』
 29歳で諸国行脚に出た菊舎が、74歳の生涯を閉じるまで生誕地田耕に幾度帰ってきたかは定かではありませんが、矢玉内田家から見つかった歳旦帳『長陽』によれば、37歳の寛政元年(1789)の末、近郷の和久や矢玉連衆に招かれています。
 「さは折よくその会筵に招かれ・・」と前掲句を詠んでいますが、私はこの文中の「折よく」という箇所に注目。ひょっとすると、妙久寺(筆者宅)に菊舎の妹が嫁いできた時ではないかと想像していたのです。ところがこの予想は的中、昨年、菊舎の父本庄了左著「本荘家系図旧記」にめぐり合い、菊舎の妹・於トメが寛政元年、寺に入嫁したと記されていました。
 地元の連衆たちは、生誕地田耕に帰ってきた菊舎を見逃さず、喜んで招いたものと思われます。
神田の庄屋竹田峯秋は
  道の栄へ四方に仰がん花の春
と、その喜びを熱く書き残しています。
菊舎の妹・於トメの婚家先 妙久寺
   ―下関市豊北町田耕―
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新菊舎慕情 45
  たをれふすとも恩の影花のかげ           『首途』
 菊舎三十八歳の寛政二年三月十日、傘狂主催の芭蕉百回忌取越法要が、京都東山雙林寺で勤められました。
 当時は、各務支考をはじめ、歴代の美濃派宗匠の碑もある大寺院でした。現在このお寺は、円山公園設置などにともない、昔の面影はなく、本堂の一宇と碑を残すだけになっています。
 菊舎の今回の旅は、法要参列と、吉野の花に遊ぶのが主な目的でありました。この都のぼりの様子を記した稿本を読みますと、面白く思わず笑ってしまうほどです。
 宮市(防府)で、山口の壺外と落ち合った菊舎は、徒歩で行こうとしましたが、帆船に乗り込もうとする壺外と意見が合わず、年長の彼から旅の荷物を取り上げられ、むりやり船に乗せられてしまったのです。でも、途中で無風状態になり、備中の下津井港で足止めされた菊舎は、法要に間に合わないといけないと、壺外の止めるのも聞かずに、ひとり船を下りて陸路をたどります。果たして彼女は、一週間先の法要に参列できるでしょうか。
支考(梅花佛)はじめ美濃派宗匠の碑
―東山・西行堂(雙林寺下)―
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新菊舎慕情 46
  (こも)着ても好な旅なり花の雨         『首途』
 祖翁百回忌の法要に間に合わなかったらと、若さにまかせ帆船を下りた菊舎ではありましたが、陸路の旅は苦しいものでした。しかし、彼女は、折からの桃の節句にあたり、
   わらぢ釣りし奥にも床し雛祭り
風が直って、壺外らの乗っている船が動き出したと聞いて
あるはよろこび、あるはうらやましながら
   船路より陸路のさびや草の餅
うね坂とて西国の人々くるしめる大難所あり。ひとりとぼとぼ越えて
   うね坂や箱根に似たる花すみれ
と、句を詠みながら山陽道を急ぎました。
 冒頭の一句には、次の前書きがあります。
大雨に雨具なし。薦買て柿の葉人形のかたちとなり、我も人もおかしきすがたにぞ。
難儀をしながらも無事京都入りし、法要に列席することができたのです。船旅を貫いた壺外の姿もあり、安堵した菊舎でした。
歴代の宗匠たちが芭蕉忌をつとめた雙林寺は、時宗国阿派の本山であったが、明治維新のとき天台宗に改まった。
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新菊舎慕情 47
  山門を()れば日本ぞ茶摘唄         『吉野行餞吟』
 寛政二年三月二十五日、菊舎は宇治の萬福寺に詣でました。萬福寺は、明の僧、隠元の開基した黄檗宗の寺で、伽藍から法服・法式に至るまですべて唐風でした。寺の内を巡拝しているうちに、唐土にいるような心地がしていた彼女が、山門を出ると一面の茶畑の中から、女たちの歌う茶摘唄が聞こえ、おもわず
 「ああ、ここは日本であったか」
と詠んだのが掲句で、今では菊舎の代表句となっています。
 菊舎の故里長府の覚苑寺進藤端堂と万松院山本提山両師が発起して、大正十一年、「山門を・・」の句碑が、萬福寺の山門前に建立(石は庭師小川白楊の寄付)されました。当時の「黄檗宗報」を見ると、
「十月十三日の空はたかく晴渡り朝暾(ちょうとん )黄檗山頭にかゝる時正に十時、寛政の女流俳人一字庵田上菊舎尼の句碑除幕式は開かる、堂頭猊下は一山の聖衆を率いて・・中略・・午後二時よりは黒頭巾横山健堂学士の講演あり長講二時間にして同四時解散す」
とあります。

菊舎句碑
-京都宇治 黄檗山萬福寺-

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新菊舎慕情 48
  (うぐいす)の老を手引や女人みち         『吉野行餞吟』
 宇治萬福寺を出た菊舎は、平等院・在原寺・長谷寺などを巡拝し、4月4日には多武峰(とうのみね)に登りました。この山には、田上家の始祖と言われる藤原鎌足の廟がありますが、門内は女人禁制となっていて、門前より寂しい女道へとひとり分け入ったとき詠んだのが前掲の句です。
 鶯の老とは、夏になって声に生気を失った老鶯のことで、夏の季語となっています。
 登るほどに道もわからず迷った彼女は、寺の真中に出てしまい、五・六人の小僧に取り囲まれ大いに叱られました。しかし、そこは度胸のよい菊舎
「女人禁制は合点して、女道とある方へ入ったが、甚だ難所で命からがら出たのがここだから、斯(か)くなるうえはご用捨ご用捨」
などと断り、こころ静かに拝んでまわったというのです。 
  半分でさへ見余りぬたうのみね
菊舎の物事に動じない一面が窺われる、多武峰での愉快な話です。
藤原鎌足を祀る淡山(たんざん)神社拝殿―多武峰山上―
淡山神社は明治の神仏分離までは妙楽寺と称す天台寺院だった。
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新菊舎慕情 49
  夏山に雲見て済す吉野かな         『吉野行餞吟』
 古くから桜の名所であった吉野山に、菊舎が着いたのは、花も散りきった卯月(陰暦四月)五日のことでした。奥の院から分け入って、西行庵に足をのばした彼女は、雨のためここで一夜を過ごします。西行法師の黒い木像がぽつんと安置された庵は、戸も敷物もない三畳ばかりの狭いものでしたが、木像の法師に差し向い心おきなく宿りました。
 西行法師は、和歌を詠みながら諸方を遍歴した僧であり、菊舎は前掲の発句の心を、今宵の宿主に合わせて和歌にして、
    春ののちも花かとみえてよしの山
     峰の青葉にかゝるしら雲

        {線の箇所、「手折菊(たおりぎく)」では夏来ても
と、初めて和歌を詠みました。
 俳句のほか書画や茶にも通じていた菊舎に、今また新たに和歌が加わったのです。このことは、のちの殿上人との交流にも大きくかかわっていったものと思われます。
西行庵
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新菊舎慕情 50
  いたゞいて笠におぼえん桜の実         『吉野行餞吟』
 当時、吉野の桜は神木で、枝を折れば島流しなどのきびしい掟もあったようです。ところが、菊舎は故郷の歌人実苞先生に、吉野土産に桜を約束していたことを思い出し、人の見ぬ間に葉桜や桜の実を少々と、落ちかかった桜木の皮を「神さまおゆるし下さい!」と手早く懐に入れ、知らぬふりして山を下ります。やがて、懐いっぱいに蟻が出て彼女の胸をさしましたが、「花の咲く木にできた蟻とおもえばさのみにくからず。たゞ蟻の古巣を破りしこそわりなけれ」
と、記しています。大胆かつお茶目な菊舎の一面がうかがわれる逸話で、前掲の句の前には「神木なればおそれおそれ大切に申しうけ侍りぬ」と書いています。
のちに故郷の実苞先生に吉野土産を携えて、先生の家を訪ねた菊舎に、思いもかけない先生の訃が知らされました。
実苞の弟の、のぶ賢は、菊舎のやさしい心づかいに
  恵み得てさながらこゝにみよし野も
  みる心ちする言の葉のつと(土産
)
 と大変感動しました。
吉野の桜
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