峠の茶屋  
 開店口上
このたび、峠の茶屋を開店しました。まだ屋号もない小さな茶屋ですが、旅を続ける皆さんがホッと一息できるように、美味しいお茶とお菓子を用意してお待ちしています。是非、お立ち寄り下さい。 (吉村ひとみ)
 【峠の茶屋 四月 ういろう
 峠の茶屋、今月のお菓子はういろうです。
山口県に住む私たちにとっては、ういろうはとても親しみのある和菓子。わらび粉製のプルプルとした舌触りが懐かしく、好きな人にはたまらない味です。私も子供の頃から大好きで、家族が山口市に出張の際は、お土産には必ずM堂のういろうを所望したものです。
もっともこのういろう、他の地方の人にはなかなか通じなくて、名古屋や小田原のういろうのようにある程度硬い棹物と思われる向きもあります。東京の友人に山口のういろうを渡したところ、こんなに柔らかいういろうが存在することにびっくりされたのですが、その反応にこちらもびっくり。所変われば品変わるという言葉通り。もちろん峠の茶屋でお出しするのは、わらび粉使用の柔らかな感触のものです。
さて、ういろうの名の由来はどこから来るのでしょう。「外郎」と書いて「ういろう」と読ませる難読漢字ですが、歌舞伎ファンの方ならすぐに「外郎売り」を思い浮かべられることでしょう。歌舞伎十八番の一つ、二代目市川団十郎の当たり役「外郎売り」です。そもそもこの演目は外郎によって団十郎の持病の咳と痰が治ったことに感謝して演じられたのが始まりと伝わります。以来市川家のお家芸、薬の効用を立て板に水、早口でまくしたてるところは、さすが歌舞伎役者、外郎の故事来歴や飲み方、自然に舌が滑らかになって早口になり身振り手振りもおもしろおかしく、とても楽しい演目です。薬は透頂香(とうちんこう・・中国伝来の貴人が冠の中に忍ばせる薬の意)で、小田原では今もこの透頂香を製造販売している老舗があり、その傍らでは棹物のお菓子の外郎も販売されています。ちなみにお菓子のほうは、苦いお薬のお口直し用に作られていたものが広まったのだとか。
ういろう
 菊舎は、東海道を歩き各駅の画賛を残しています。小田原は提灯の画とともに次の句が。

   小田原やうゐらう匂ふ宵朧    菊舎

この句の「うゐらう」は薬の外郎のこと。小田原の外郎屋さんに行った時、この句の意味がはじめてよくわかりました。店舗に近づくほどに漢方薬のいい匂いが漂っていました。万病に効くというこの透頂香を口に含めば、旅も疲れも即座にリフレッシュしそうです。
外郎=ういろうと読ませる詳しいお話は、峠の茶屋にていたします。是非、お出かけ下さい。

 【峠の茶屋 三月 さまざま桜
 峠の茶屋、今月のお菓子はさまざま桜です。
このお菓子は、松尾芭蕉生誕の地、三重県伊賀市上野にある「紅梅屋」の創製。菓子の命名は芭蕉の句「さまざまの事おもひ出す桜かな」の句によります。主な材料は寒梅粉に山芋と砂糖。海苔や胡麻の風味もあり紅白の桜の花びらにかたどられたお干菓子は、花見のお供にぴったりです。伊賀上野といえば伊賀忍者を思い浮かべますが、まずは高い石垣が印象的な上野城。この城は築城の名手とうたわれた藤堂高虎が手がけたものですが、現在の天守は昭和の建設によるものだそうです。私も一度訪ねたことがありますが、高くそびえる石垣が圧巻、季節は春まだ浅い2月半ばでしたが、お堀端を歩きながら大木の桜並木を見て、桜の季節にはたくさんの花が咲き、水辺に浮かぶ花びらにも風情があるだろうとたやすく想像できました。忍者屋敷も楽しそうです。手裏剣、シュシュッと投げてみたいですねえ。勿論、芭蕉さんの生家も訪ねました。蓑虫庵も素敵でした。
 さて、芭蕉翁を慕う菊舎もたくさん桜の句を詠んでいます。ほんの一部を並べてみます。
  雲も鳥も見かへる寺のさくら哉   『都のしらべ』
  瀧津瀬もちらぬ音羽の桜かな    『都のしらべ』
  灸すへて見るや千里の江戸桜    『都のしらべ』
  螺吹いてけふは峰入る桜かな    『鳳尾蕉』
  水底に雲の涌き出る桜哉      『鳳尾蕉』

さまざま桜
 私も桜には人一倍思い入れがあるほうです。実は、母校の校歌の歌詞には「庭桜」が詠まれ、校章も桜のデザイン。ますます桜が好きになりました。花便りのキーワードにも注目しています。新聞の片隅に載る、開花状況を知らせる一言が遊び心をくすぐります。
 つぼみ・咲き始め・三分咲き・五分咲き・七分咲き・満開・散り始め・落花盛ん・散り果て・・・花の変化に伴い、こんな細やかな表現は他の花には使われていないと思います。如何に日本人が桜を好んでいるかがよくわかります。
 茶屋の裏庭には枝垂桜があり、咲き始めたら毎晩ライトアップします。茶屋の表に開花状況をお知らせする札を掛けますので、ご確認の上、是非遊びに来て下さい。

 【峠の茶屋 二月 椿餅
 峠の茶屋、今月のお菓子は椿餅です。
椿餅とは道明寺粉の外皮で餡を包み、上下を椿の葉ではさんだもの。道明寺粉を使うところは、桜餅とよく似ていますが、椿餅の存在はかなり古く、平安時代にはすでにあるお菓子なんですよ(ちなみに、桜餅は江戸時代になって登場)。実は古い形の椿餅には、餡が入っていません。古文献に残る椿餅の様子は「椿の葉を合はせて、もちひ粉に甘葛(あまずら・・山中に生えるつる草の一種で、それから甘味料を採取)をかけて包みたる物」とあります。風味付けに肉桂が使われました。平安時代の文学作品『源氏物語』若菜上の巻には、蹴鞠を終えた若き公達らがこの椿餅をほお張っているところが書かれています。蹴鞠の直会に椿餅が定番とは不思議な感じですが、砂糖が入ってきたのは歴史的には随分後のこと、甘いものが貴重だった時代に眉若き殿上人たちがパクパク椿餅を食べている姿は、今想像しても楽しいですね。
椿餅
  峠の茶屋の庭には、たくさんの椿の木があります。木偏に春と書く「椿」。寒い時期から春先まで次々に咲く花は、約半年旅人の目を楽しませてくれます。花の形状もいろいろ、また、銘もいろいろ。椿の魅力は計り知れず、人それぞれの楽しみ方があります。菊舎も茶人としてたくさんの茶事を経験しました。お茶席に活けられた花にも当然目が行きます。文化12年(1815)春、京都の竹中文輔の茶室には、『玉手箱』という銘の椿が活けてありました。
    開く中に花も奥あり玉手ばこ   「都のしらべ」
と詠んだのです。この玉手箱というミステリアスな銘の椿は、私も一度写真で花を見たことがあります。ちょうど花の芯にあたるところ、蘂が見えるようで見えないもう一つ花の蕾があるような感じがして、これぞまことに玉手箱・・と思いました。
 立春過ぎれば水温み、木の芽起こしの雨に打たれ草木も芽吹き始めます。冬枯れの景色だった峠の茶屋付近も、次第に春の気配・・。まもなく椿が咲きそろいます。可愛らしい花や大きな花。椿餅にはお番茶を入れてお出しします。どうぞ、お出かけ下さい。

 【峠の茶屋 一月 花びら餅
 明けましておめでとうございます。
平成25年(2013)、峠の茶屋も穏やかな新年を迎えることができました。今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。
 今月のお菓子は、花びら餅です。花びら餅は本来宮中の伝統行事に使われた「菱葩(ひしはなびら)」に由来します。丸い葩形の白餅(あるいは求肥)と菱形の紅餅を重ね、その中に甘煮にした牛蒡(ふくさ牛蒡)と味噌餡をはさんで二つに折ったもの。この菱葩(ひしはなびら)のルーツ、遡って行きつくところは、新年の「歯固め」の行事。平安時代の頃から、齢を固める(長寿を願う)ために、猪・鹿・大根・瓜・押鮎などの食物をいただく習わしがありました。歯固めが儀式として定番となり、現在の花びら餅の牛蒡は押鮎に見立てたもの、味噌は雑煮の意味が込められているといわれています。
 最近は、お雑煮を食べる家庭も少なくなったとか。せめて花びら餅ぐらいいただいて、伝統的な日本の食習慣を体験したいものです。そうは言っても、この花びら餅も年末年始限定の季節商品。デパートでもクリスマス商戦が済んだあとでないとお目にかかれませんが、お店により牛蒡の太さや味噌餡の味が少しずつ違うので、その食べ比べもおもしろく毎年お正月が待ち遠しいようです。茶道裏千家の初釜では、主菓子に必ず花びら餅が出されます。懐石の後、花びら餅をいただき濃茶をすすると、今年のお稽古が始まるんだなあと感慨ひとしおです。
花びら餅
 さて、菊舎のお茶事もエピソード多数、なかには幼い子供たちとの交流の記録も残っています。文化14年(1817)65歳のとき、長府にいた菊舎は初茶会に親戚の子供たちを招きました。正月5日、豆茶人たちと大福茶をいただき、合い間には破魔弓・羽子・手まりなどで遊び、のどかな一日を過ごしました。
 このときどんなお菓子を食べたのか・・、残念ながら記録にはお菓子の記述はありませんが、きっと伝統を踏まえて花びら餅も食べたかな?歳の差も厭わずおもてなしを楽しむ菊舎のほほえましい光景ですね。
 今年も美味しいお茶とお菓子を用意して、皆様のご来店をお待ちしています。お正月過ぎて一段と寒さ厳しく、峠の茶屋付近も氷が張ります。足元滑らぬよう、気をつけてお越し下さい。たくさん薪をくべてお部屋もしっかり暖まりました。囲炉裏に当たって、どうぞごゆっくり。

 【峠の茶屋 十二月 寒菊
 峠の茶屋、今月のお菓子は寒菊です。
 この寒菊、九州では現在も銘菓として存在しています。特に長崎のものは、菊舎も食べたものなので、親しみを感じます。
 寛政8年(1796)、菊舎44歳のとき長崎で正午の茶事を催します。(茶会の詳細は稿本九国再遊墨摺山二にあり、菊舎研究ノート第2号にも掲載しています。)このときの惣菓子(干菓子)が、『かんぎく』(茶会記には、ひらがなで記述)です。
 そもそも寒菊は、江戸時代の初期、明国通商貿易の折長崎に伝えられたというものです。甘味をつけた餅(いわゆる寒餅とか凍り餅、かき餅とか呼ばれるもの)を薄切りにし、干してから焼き、生姜入りの糖蜜をかけて衣をつけたもの。白い蜜がかかった状態が、菊にうっすらと雪が降り積もった様子と似ているのか・・、『寒菊』とはとてもロマンチックな命名です。長崎の銘菓ですから、長崎での茶事には欠かせないということで、菊舎は早速取り入れています。この茶会では横文字が書いてある敷き物を使ったり、中立のしらせに琴を弾じたりと趣味人として、また国際派の菊舎の要素をたくさん見ることができます。
 行く先々で、銘菓に出会えるのは、とても楽しいこと。私も菓子行脚に明け暮れたいところですが、なかなかそうもいかず機会をとらえては一つずつ試しているところです。手始めに菊舎が茶会記に書き残したお菓子や食べたと思われるものを探し、峠の茶屋で皆さんにご披露しています。茶懐石も最後の一品が菓子。席主の心入れがわかるものなので、お菓子の吟味には余念がありません。画竜点睛を欠くことの無いよう、取り合わせの試行錯誤が続きます。菊舎の取り合わせも、限られた条件の中で手に入るものを上手に生かしていて茶事を心から愛していたのだなあと感じさせます。
寒菊
 早いもので、今年も暮れようとしています。峠の茶屋は、年末年始の休業をいただきます。年末は12月29日(土)まで、明けて平成25年は、1月6日(日)から営業。お正月の初茶席にご来店の方には、新年お祝いの大福茶を差し上げますのでどうぞお出かけ下さい。今年5月の開店以来、ご愛顧いただきまして誠に有難うございました。来年もどうぞ、ご贔屓に。皆様良いお年をお迎え下さいませ。

 【峠の茶屋 十一月 織部饅頭
 峠の茶屋、今月のお菓子は織部饅頭です。
山の木々も色づきはじめ、移り行く自然の風景に心和みます。
さて、十一月は、茶人にとって待ち遠しい炉開きの季節。茶事に執心した菊舎のこと、この炉開きの時期はとても忙しく過ごしています。
文化5年(1808)菊舎56歳の時、10月8日から27日まで下関の本陣伊藤家の持仏堂空月庵を借りて、炉開きの茶事を催しました。(この茶事の詳細は、菊舎研究ノート第3号に解説していますので御覧下さい。)このときの主菓子が“まんぢう”と記され、“炉開きには織部のなにか一品を用いる”という茶のしきたりに従ったならば、織部饅頭と想定できます。そしていわゆる三部(さんべ)・・織部(おりべ)、瓢(ふくべ)、伊部(いんべ・・備前焼)の取り合わせ。菊舎が残した炉開きの茶事の茶会記によれば、茶入に古備前、炭斗に肥後ふくべとあり、織部饅頭とくれば三部揃ってさすが茶道に熱を上げた菊舎らしい道具組みです。ですが、二十日間も茶事を催すのは大変なこと。菊舎もいろいろと趣向をこらし、招待客も各方面に亘ります。長門一宮(住吉神社)二宮(忌宮神社)松崎社の宮司さんたちを招いた時には、銘『神路山』の茶杓を用い、
     炉開きや天の岩戸はいざしらず
と一句残しています。一連の茶事を終えほっとしたのか、29日の朝には、気に入っていた自作のお茶碗を麁相して割ってしまいました。あ〜、ざんね〜ん!でも、楽しい思い出はしっかり残りました。「空月庵むだ袋」に書き残された茶会の記録を見ただけでもその様子が伝わってきます。
織部饅頭
 織部饅頭は、現在でも炉開きのころには茶人に愛されるお菓子のひとつ。種類としては薯蕷饅頭ですが、包み皮に織部焼の釉のような緑色を染め、井桁や梅鉢、木賊紋などの焼印を押しています。餡はつぶ餡や漉し餡、紅餡もあります。お菓子屋さんによって少しずつ柄が違うので、食べ比べも一興ですね。
峠の茶屋の近くの街道沿いには、大きな銀杏の木があります。今年もたくさん実をつけました。手早く処理しておいしいぎんなんを収穫。柿の実は少ないようですが、干し柿にするくらいは枝に残っています。夕空には雁が渡り、朝晩はグンと冷えてきました。峠の茶屋もそろそろ冬支度。昔の習慣に従って中の亥の日のあとにコタツを出す予定です。

 【峠の茶屋 十月 栗きんとん
 峠の茶屋、今月のお菓子は栗きんとんです。
代表的な秋の味覚「栗」。山苞(やまづと・・山家の土産)には、木の実が喜ばれますが、イガイガに包まれた栗には自然の味が満ち溢れ、季節がしっかりと感じられます。峠の茶屋の近くにも、大きな栗の木がありますので、今年もたくさん栗がとれました。
栗きんとんとよばれる物にはいくつかの形状があります。ゆでた栗の実に砂糖を加えて熱し、餡状になるまで練り、粒状の栗を混ぜ合わせて布巾に包んでぎゅっと絞る、いわゆる茶巾絞り。また、蒸した栗に甘味を加え、裏漉ししてそぼろ状にし、丸くかたどったものなど。また、お正月のおせち料理に入っている黄色い口取り。皆さんは、どれを思い起こしますか?
 もともと、きんとんは中国から留学僧が持ち帰った唐菓子の一つから発展したものです。当初は、粟の粉を団子に作ってそれに小角豆を煮て干餡をつけ、甘葛で味をつけていたようです。時代が下って、江戸期には梔子で黄色に染めたものや、そぼろ餡をつけたものが登場し、現在私達が知る栗きんとんの形になってきました。
 栗きんとん
 菊舎は、寛政5年(1793)に中山道を通っており、稿本『美濃・信濃行』によると八月中ごろに中津川に至ります。はじめて訪ねたところでしたが、同門のゆかりとて、在郷の俳人に篤くもてなされて安心して笠を預けました。岐阜県中津川市といえば、今でも栗の名産地。特に栗きんとんは、全国に知られる名菓です。菊舎が立ち寄ったのも栗の実がなるころ。その直前、持病の喘息がでて胸痛に苦しみ、一人旅の心細さを感じた菊舎でしたが、中津川にたどり着くころには回復。中津川の連衆と楽しく交流したことも記録されています。きっと栗も美味しくいただいたことでしょう。仲間との有益な時間も力添えになり、その後の中山道は無事に歩いて木曽の山中で十五夜を迎えています。以前そのあたりを菊舎顕彰会のゆかりの地めぐりの研修バスで通りましたが、山また山のさびしいところ。これを徒歩歩きで頑張った菊舎さんには脱帽です。
 旅には絶好の季節になりました。天高く馬肥ゆる秋・・、運動しなくてもすぐにお腹がすきます。期間限定のサイドメニューで栗おこわに蒸かし芋も用意しています。栗名月のころには、夜も営業。峠の茶屋で観月の夕べを催しますので、是非お出かけ下さい。

 【峠の茶屋 九月 手折菊最中

今月の峠の茶屋、お菓子は最中(もなか)です。日本全国、最中はたくさんありますが、我らが菊舎にちなんだ、その名も手折菊最中(たおりぎくもなか)をご用意しました。

 文化9年(1812)、菊舎は自身の還暦祝いに『手折菊』を刊行します。花鳥風月の4巻からなり、旅に明け暮れた彼女の半生をまとめたものです。その『手折菊』の名称を冠して下関市豊北町粟野のだるま堂さんが、もなかを製造販売しています。包装紙にも咲き乱れる籬の菊が描かれ、秋の風情を感じるデザイン。香ばしくパリッとした皮の食感と程よい甘さの小豆餡のハーモニーは佳品です。

 さて、99日は重陽の節句。菊の節句とも言われ、陽数9が重なるので「重陽」。五節句の掉尾を飾り、昔宮中では菊見の宴も催されました。露が宿った菊の着せ綿で顔を拭ったら、シワものびるとか。また、酒盃に菊の花弁を浮かべる菊酒も延命の妙薬。中国の詩人陶淵明は、その詩『飲酒』で「采菊東籬下 悠然見南山」と詠い、菊を愛でます。中国の加齢延年の伝説では、七百歳の長寿を保ってなお童形の美少年が生きていた、それは菊の露を吸って命永らえることができたからと・・。菊は薬草でもありましたからその効果もあったのでしょう。まさか、七百歳までは生きられませんが、頭痛・めまい・腫れ物などに良いそうですから、気分はすっきりしたに違いありません。

 手折菊最中
 菊舎も晩年に入って両親への報恩感謝の気持ちと、自分の長寿を祝って、

   父母の住玉ひし庭前の菊花をみ侍りて

そだてられし千世の花咲節句哉

きせわたの笠着て遊ぶ節句かな

      重陽七十一齢菊舎
(文政六年書留)

と菊花の画賛を添えて詠んでいます。本名道(みち)から菊舎を名乗って約半世紀。菊舎にとって菊の花は最も愛着のある花です。大輪もよし、管物もよし。峠の茶屋にも、菊人形を並べています。少し涼しくなって、山歩きにもいい季節になってきました。今月も峠の茶屋へお出かけ下さい。菊舎の面影を慕いて、手折菊最中をどうぞ!

なお、菊舎顕彰会では、平成15年の菊舎生誕250年を記念してこの『手折菊』を復刻し、現代語訳も添えて読みやすく解説しています。菊舎の花鳥風月の心にふれていただければ幸いです。峠の茶屋でも取り扱っていますので、こちらもよろしくお願いいたします。


 【峠の茶屋 八月 葛切り
 峠の茶屋、今月のお菓子は葛切りです。
炎天下、峠までようこそおいで下さいました。よく冷やした葛切りを召し上がれ!この峠の茶屋には裏山からこんこんと湧き出る清水があります。一年を通じて流れ出で、夏は冷たく冬は暖かく感じます。くせのない味で、まろやかな美味しい水です。この水を桶に汲み、スイカやウリを冷やしておくのもいいですが、今日は葛切りをお勧めします。
さてこの葛ですが、その花は『万葉集』にも詠まれた秋の七草の一種。

 秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花
    1537  山上憶良

 萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花
    1538  〃

 葛は花を愛でるとともに、葛粉が古くから食用されています。産地大和国吉野郡の地名国栖(くず)に由来して、万葉の時代にはすでに“くず”と呼んで葛粉を使用しています。また、葛粉を使った料理は、“吉野仕立て”といわれます。漢方では、葛根湯は風邪薬として知られ、花を陰干しにしたものを煎じて飲むと酒の酔いを醒ます効果があるそうです。
 葛粉は、12月から翌3月にかけての寒い時期に葛の根を掘り出して泥を洗い、それを叩き潰して臼で挽いたものを布袋に入れてでんぷんを揉み出し、沈殿させて漂白乾燥して作ります。気の遠くなるような作業の結果、1kgの葛根から採れるのはわずか100g。純白に輝く葛粉は「白い金」と称されるほど。高価ゆえに、現在は葛粉よりも片栗や薯でんぷんのほうが多く使われていますが、舌触りや風味においてやはり葛粉に勝るものはありません。和菓子でも夏を代表するものによく用いられます。私もつるっとしたのどごしが大好きです。
 葛切り
  寛政2年(1790)、京都東山雙林寺での芭蕉百回忌取越法要に参列した菊舎は、宇治萬福寺をはじめ名所旧跡を廻ります。そして、吉野山へも足を延ばしました。葛切りを食べたかどうかはわかりませんが、奥の院のあたりの茶店でしばらく雨宿りをしていますので、きっとなにか名物の葛菓子を口にしたことでしょう。
 葛切りは、水溶きした葛を裏漉しして、湯煎で固めたものを切っただけのごく単純なものですが、素朴な味わいは昔から親しまれています。さあ黒蜜をかけておあがり下さい。きっと口中爽やかになり、一時暑さを忘れ涼んでいただけることでしょう。

 【峠の茶屋 七月 金平糖
峠の茶屋、今月のお菓子は金平糖です。
七夕に因み、お星様を連想する可愛らしい形のものなので選んでみました。
この金平糖、もともとはポルトガル語のコンフェイトス(Confeitos)が語源で、室町時代から安土桃山時代にかけてポルトガル人によって長崎に伝えられた南蛮菓子の一つです。芥子の実を種として回転する釜に入れ、グラニュー糖を煮とかした蜜をかけながら熱すると、砂糖が再結晶し、だんだん角が出来てきます。完成するには1週間から2週間かかるそうです。製造過程は、熟練した技術と労力が要るもので熱さも伴って大変な作業です。金平糖というと、なんだか子供だましの駄菓子と思われる向きもあるのですが、実は茶の湯の席でも用いられる風流なお菓子。永禄12年(1569)ポルトガルのイエズス会宣教師、ルイス・フロイスが京都二条城で織田信長に謁見したとき、蝋燭数本とフラスコに入ったコンフェトスを贈ったという事が『日本史』(フロイス著)に書かれています。様々な色に輝く甘い粒は、歴代の数寄者を喜ばせていたようです。
さて、我らが菊舎ですが、彼女も金平糖を食べたにちがいありません。というのも彼女は好奇心のかたまりでもあり、珍しいものと聞けばまず試していた行動派。京都では、ガラス器に入ったぶどう酒の絵も描いていますので、信長の話を聞くまでもなく食べていたでしょう。
 金平糖
 また、七夕といえば菊舎にはこんな面白いエピソードが残っています。
文政8年(1825)7月、菊舎73歳。七夕前夜に長府藩主、毛利元義(41歳)と俳諧の約束をしていました。約束の刻限より早めに到着した菊舎でしたが、折からの暑さにぐったりしていた藩主元義は、「風流つとめてなすは真の風流にあらず」と菊舎を待たせたまま、自分は沐浴したり涼んだりしているうち、菊舎のことはすっかり忘れてしまいました。思い出したのは夜もかなり更けた頃、待たされ過ぎて怒った菊舎はもう帰った後でした。然るに元義は菊舎に詫び状を書く羽目に。狂歌もよくした文人藩主(号、梅門)はこう結びます。
 ものいわぬ二つ星さへやくそくのたがはぬ今宵まして三つ星  梅門
 嬉しさのむねは一ト夜ぞ二ツ星                    〃
(注:三つ星は毛利家の家紋です)
七夕の夜には、色々な金平糖を用意して皆様をお待ちしています。どうぞお忘れなく!

 【峠の茶屋 六月 十団子
峠の茶屋、今月のお菓子は十団子(とおだんご)です。
 菊舎が残した文政七年の書画帳にこの十団子が出てきます。(なお、このとき催した水無月茶会の記録は、『菊舎研究ノート』第4号に詳細を掲載していますので、興味のある方は是非御覧下さい。)
 駿河の国(現在の静岡県)宇津ノ谷峠の名物十団子。宇津ノ谷峠は東海道の中でも難所中の難所。標高は約170メートルですが、短いながらも急な上り下りで、まわりは昼なお暗いうっそうとした木立、追いはぎも出てきそうな気配です。ここ宇津ノ谷峠には十団子につながる鬼退治の伝説も。古く室町時代の連歌師宗長の記述には、「名物十団子は一杓子に十づゝ掬わせた」とあります。それが時を経て江戸時代には小粒で数珠状の災難除けのおまじないになったそうです。現在あるものは、5ミリほどの米粉の団子を10粒麻糸に通し、それを9連ひとくくりにしたもので、団子といっても生々しい団子ではなく、よく乾燥した硬いもの。昔の人はこの十団子を、雹のように硬く歯も欠けてしまいそうだと評しています。でも日持ちがするので道中守りには、ちょうど良いものだったのでしょう。
 文政七年 書画帳
 ある時これをお土産に下さった方があり、思い立って菊舎は茶事を催します。茶会記にはさとう味噌とありますので、味付けに団子にまぶしたのでしょう。
 蔦の細道行かひし雲水のむかし忍ばしき折しも、この名産を恵れしかば
   古茶にいざや宇津の山辺の十団子    菊舎
                (文政七年 書画帳より)
と、自分が東海道を行脚した折を懐かしく思い出し、長府在の知友と楽しい時間を過ごしました。(ちなみにこの書画帳には、長府藩御用絵師の狩野晴皐がよく見る串団子の絵を添えています。)
 十返舎一九の『方言修行金草鞋』には、宇津ノ谷峠では小粒なまじないのものと、大きな串団子や自然薯の田楽も売っていると記載されています。弥次喜多道中ならずとも難所を越えるには、大き目の団子と田楽で腹拵えをしなくてはなりません。
 さて、今月の峠の茶屋には、大きな串団子をご用意しています。一串五玉で二串食べたら十団子?みたらし、つぶあん、それともさとう味噌?お好みの味でしっかり腹拵えを。茶所駿河の国から美味しい新茶も届きました。皆様のおいでをお待ちしています。

 【峠の茶屋 五月 (ちまき)
峠の茶屋、今月のお菓子は粽です。
粽は、端午の節句にはなくてはならない物です。五月五日は端午の節句。起源は、古く中国の楚の時代、汨羅(べきら)の淵に身を投じた詩人屈原を五月上午の日に弔った故事に遡ります。
日本では、奈良時代以降宮廷で行われた年中行事の一つ。文武百官こぞって菖蒲鬘を冠につけ邪気を祓い、延命を祈願しました。後に武士の時代になってからは、ショウブが尚武に通じるとして男子の節句といわれるようになりました。そして、はるか昔屈原の供養に竹筒に入れた米を川に投げ入れたのが粽のはじまりだとか。
粽の名の由来にも諸説あり、菰(こも)の葉・・真菰を粽草という・・で巻くところからきているとか、茅の葉で包むので「茅巻」が転じたとか・・。いずれにせよ、厄病除けのものだったので節句には必ず作るようになったのです。
現在多く作られているのが、上新粉を練って作る白粽。中身を棒状にして3〜5枚の笹の葉で包み、藺草でぐるぐると結い上げます。これをせいろで蒸し、蒸しあがった粽は笹の青みが逃げないように、サッと冷水に浸すのだとか。五個を一把として括ってあります。
この粽を宮中に納める職にあったのが、御粽司の川端道喜(京都市)。他の和菓子屋さんでも今も五月には季節のものとして、きりりと藺草を結い上げた粽が作られています。
 ちまき 
 菊舎はこんな粽の句を作っています。
  「笹まきや結はでくらせば手もさがり」
          (田上菊舎全集 上 p407)
旅から旅へと日々を過ごしていた菊舎。小さいころは、お祖母さんやお母さんのお手伝いで、笹まきも作っていたことでしょう。ですが、やらないでいたらそのやり方も忘れてうまくいかない・・。という感じかもしれません。
作るのも難しいですが、食べるときにもちょっとしたコツがあります。まず、太いほうから藺草をほどいて軸側に巻き寄せ、笹の葉を広げて中身を包んだ1枚の葉とともにお皿または懐紙の上に抜き取ります。むいた葉は、たたんで藺草で結びます。食べた後の最後の葉は、三角に折って軸を通し懐紙に包んで仕舞います。以前、お茶席で粽が出た時、この方法を実行してみました。連客は悪戦苦闘のようでしたが、私はうまく紐がほどけ、あっという間に粽をいただくことができました。皆さんも端午の節句には是非試してみて下さい。

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