田上菊舎略年譜
和 暦 西 暦 年 齢 略           譜
宝暦 3 1753 10月14日、長門国田耕村杣地に、長府藩士田上由永(のちに本荘了左と改名)の長女として生まれる。本名 道。母の名はタカ。
明和 5 1768 16 田耕村中河内、村田利之助(20歳)に嫁ぐ。父由永は12月17日、長府印内(下関市)に屋敷を賜って移住。
明和 6 1769 17 弟 多門次生まれる。
安永 5 1776 24 7月9日、夫利之助没。28歳。
安永 7 1778 26 9月、長府の五精庵只山から「菊車」の俳号を授かり周囲の俳人たちの祝福をうける。長府の田上家に復籍。
天明 元 1781 29 晩夏、長府を発ち、大津の人丸神社(油谷町)に詣で、静が浦を経て通港(長門市)から萩へ。真宗清光寺の聞心院老師のもとで得度。竹奥舎其音(萩藩士、羽仁寛、菖蒲庵)から、美濃派六世朝暮園傘狂あての添文を得て、俳諧の旅へ出る。京都西本願寺の七昼夜の報恩講に参詣。
天明 2 1782 30 2月末、美濃国不破郡岩手(岐阜県不破郡垂井町)を訪ね、朝暮園傘狂の門に入る。4月3日、「一字庵」の庵号と、美濃派連中への添文を受け、越前・越後・奥羽と「奥の細道」の逆コースを辿る大行脚に出る。師の傘狂は、菊舎の檜笠に「一日も旅なり花に着る笠は」と書き、頭陀袋には「和らかに見られて進めおぼろ月」と、はなむけの句をしたため送り出した。途中、加賀の松任では千代女の養子白烏から千代女の在りし日のことを聞く。信濃では善光寺に詣で、姥捨山で大雷雨にあった。新潟では、盆踊りを見物し、出羽の小国では、五松先生に書を習った。立石寺を出て二口峠では、道を失い終夜、山をさまよう危難にも遭ったが、無事に仙台に着き、松島に遊んだ。日光山の鐘を聞けば、故郷のことがしきりに思われ、漸く年末に、江戸下谷徒士町の道元居信我(幕府御家人、野村安長、のちの白寿坊)宅に着いた。
天明 3 1783 31 萩の其音や、美濃の傘狂に再会、さかんに雅会に参加し俳諧修行をする。「菊車」から「菊舎」へ改号。
天明 4 1784 32 4月25日、江戸を発ち、東海道を西上して、美濃着。傘狂の高弟政田村(真正町)の、細竹庵百茶坊(庄屋、高木重助、巒古)宅を定宿として、近隣の連衆と頻繁に雅会。伊藤宗長(竹中氏の家老、桜雲亭、自然斎)に茶道を学ぶ。7月末、養老滝に遊び、8月菊舎送別の雅会数多。途中、京都に寄り、秋4年ぶりに帰郷。
天明 5 1785 33 冬、生雲(阿東町)の三思を訪ね雅会。
天明 6 1786 34 美濃の百茶坊に同行して、豊浦・萩・九州を経巡り、美濃派伝播のために力を尽くす。9月末、亀井南冥と初対面。初冬独り長崎へ。
天明 7 1787 35 1月末、百茶坊と落ち合い阿蘇山へ。その後、島原・佐賀を巡歴し、秋、一旦帰郷するも、傘狂の病気見舞いに、ふたたび美濃へ。
寛政 元 1789 37 年末、生誕地田耕近郷の和久・矢玉連衆に招かれ俳筵に連なる。
寛政 2 1790 38 3月10日、京都東山雙林寺での傘狂主催芭蕉百回忌取越法要に参列。宇治黄檗山萬福寺をはじめ名所旧跡を巡拝し、吉野山へ。
寛政 5 1793 41 春、大坂・京都を吟遊し、美濃へ。師の傘狂と付合を楽しむが、これが傘狂との別れになる。二年前に亡くなった百茶坊の旧宅を訪ね、長良川の鵜飼見物をする。8月、中山道に入り、木曽路を経て善光寺に参詣。9月、江戸着。木工屋作左衛門から七絃琴を贈られ、菊地東元に弾琴を学ぶ。12月17日、傘狂、美濃にて没。67歳。
寛政 6 1794 42 京都で、前右大臣西園寺賞季から七絃琴に「流水」の銘を賜り、塗師中村宗哲が漆で銘を入れる。中納言平松時章に弾琴と華音を学ぶ。
寛政 8 1796 44 初夏、九州へ。平野柄悟に華音を学び漢詩の実作。竹野木吾、楢林栄建、村井琴山、高本紫溟、費晴湖、樺島石梁らと交わり、文人的風雅の世界を楽しむ。
寛政10 1798 46 秋、田耕の婚家村田家を訪れ、漢詩二首を詠む。蒲生鳳林や近郷の俳人達と交流。
寛政12 1800 48 萩に滞在。5月、弟 多門次(由規、今始)が、大坂にて没。32歳。
享和 元 1801 49 10月28日、川井立斎の案内にて大坂堀江の木村蒹葭堂を訪問。
享和 3 1803 51 秋、長府藩主11代毛利元義公に召され、前田の別業閑習庵において、御用絵師文流斎と「前田二十勝」を合作。10月、別府を訪い、口切り茶会。12月、福岡の亀井南冥や、その弟崇福寺曇栄(幻庵)らと漢詩などを応酬して遊ぶ。
文化 元 1804 52 福岡、大宰府、熊本を遊歴。7月、長瀬真幸、村井琴山らと不知火見物をする。初冬、太宰府の竃門山に登り、12月中旬、長府に帰郷。
文化 2 1805 53 夏、萩東光寺大愚和尚と詩の贈答。藩校明倫館の聖壇に、漢詩・発句を献じる。初冬、長府に帰る。藩主元義公から中国の琴士が着る鶴しょう裘を拝領し、諸士に披露するため博多に渡る。
文化 3 1806 54 3月、京都永観堂に芭蕉以下六師の塚が建ち、その建碑式に参列。
文化 4 1807 55 7月11日、父了左没。85歳。秋、田耕妙久寺に親鸞聖人の御取越の法要を設け、近隣のお寺にも参拝。
文化 5 1808 56 神田村(豊北町)の酒屋、竹田峯秋宅で迎春。夏、下関細江の広江殿峰を訪う。西市の中野長嘯宅を訪れ、漢詩の応酬をした。10月8日から27日まで、下関の本陣伊藤家の持仏堂空月庵を借り、炉開きの雅筵を開く。
文化 6 1809 57 9月、田耕妙久寺8世住職の悔みに訪れ、俳諧付合。初冬、江良の月山(華山)に登り芭蕉の句碑を拝す。12月、萩へ。
文化 8 1811 59 2月、萩を発ち、帰郷。母の八十賀を祝う。3月、京都に上り、西本願寺の親鸞聖人550回忌に参詣。10月、大徳寺昨夢軒に茶宴を設け雅会。以後も度々、公卿たちと親しく交流。
文化 9 1812 60 4月8日、奈良法隆寺の開扉にあい、中国伝来の開元琴の弾奏を許されて、南薫操一曲を弾く。夏、「手折菊」京都俳書肆橘屋治兵衛より刊行。
文化11 1814 62 2月、萩に竹奥舎其音を訪ね、それより大坂へ。
文化13 1816 64 7月9日、母タカ没。84歳。
文政 4 1821 69 美濃派九世山本友左坊、長府、田耕を訪れ、俳諧付合。12月8日、末弟、椋梨策治(周古)没。
文政 5 1822 70 2月、父母の文塚を長府金屋徳応寺に建立。萩へ。
文政 7 1824 72 秋、生まれ故郷田耕へ今生の暇乞いの旅をし、さかんに俳諧興行。蓁々園村田桃葉を一字庵2世として文台開きを行う。
文政 8 1825 73 3月15日、妹(田耕妙久寺九世室)没。61歳。
文政 9 1826 74 8月23日、長府にて没。法名、一字庵菊舎釈妙意。墓所は長府中之町本覚寺、金屋町徳応寺、二ヶ寺にある。

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