行 程 |
人 丸 神 社 |
|
萩に向かう途中に長門市油谷町の人丸神社を参拝する。祭神は柿本人丸(柿本人麻呂)。農・工・商繁栄、延命長寿などの御利益で信仰されているが、また「人丸=火止まる」から火除けの神や学業成就・文運の神としても親しまれている。
吾笠にさびしさしめや蝉しぐれ
染めて行かむ筆柿の葉も茂り時
天明元年(1781)29歳の菊舎は長府を出立するとここにお参りし萩へ向かった。
昭和47年、地元、油谷の俳人たちによって菊舎の句碑が建立されました。 |
 |
 |
Topへ |
萩金谷天満宮 |
|
鎌倉時代の長門守護佐々木高綱により太宰府より勧請されたと云われ、享保5年(1720)萩藩主毛利吉元の時、奥金谷の地から現在地に再興された。
寛政12年(1800) 菊舎48歳の正月、金谷天神に詣で、愛用の七弦琴を弾じ、
花の春や先づ天満る香に吹れ
と詠んだ。
またここは萩城の表玄関といえる大木戸のあった所で番人を置き日没と同時に門を閉め出入りを制限した。
台数は限られますが無料の駐車場があります。 |
 |
Topへ |
清 光 寺 |
|
浄土真宗に帰依した清光院殿(毛利輝元の正室)の援助により創建。寛永8年(1631)清光院殿の死去によりその菩提寺として清光寺となる。
菊舎は聞心院老師の導きにより得度し、「妙意」の法名をうけ尼となる。
秋風に浮世の塵を払けり
菊舎が訪れた時の清光寺は現在、道を挟んだ向かいにある西本願寺萩別院のところにありました。
駐車場はありません。 |
 |
 |
Topへ |
弘 法 寺 |
|
弘法寺はもと寄船山弥勘院と号し,平安初期の由緒を持つ。
境内には多くの句碑や歌碑があり
芭蕉以下美濃派宗匠の塚を見学した。
仙石蘆元坊句碑
竿鹿も ねに来よ萩に 一夜庵
各務支考(東花坊)句碑
六月に よき隣あり 萩の花
他にも、萩の乱を起こした前原一誠の墓や比翼塚などがある。
無料駐車場があります。 |
 |
 |
Topへ |
東光寺・思君亭跡 |
|
護国山東光寺は元禄4年(1691)第3代藩主吉就が萩出身の黄檗宗の高僧、慧極禅師に帰依し、現下関市の松屋にあった寺を移し建立し以後萩藩主の菩提寺のひとつとして栄えた禅寺。
菊舎は東光寺の最盛期を築いた15代・大愚和尚と盛んに交流し、その茶室・思君亭での発句を残している。
「高麗も一目に涼し思君亭」
庫裡の裏の高台にあった思君亭は日本海を望む眺望の良い茶室だったようだが明治期に解体され今はその跡も留めない。 |
 |
 |
樹々亭跡・吉田松陰誕生地 |
|
萩市街を一望できるこの高台は菊舎と親交のあった萩藩大組士八谷直人(俳号聴雨)の別荘のあったところで、そこに逗留中の菊舎が「樹々亭」と命名した。寛政12年(1800)の夏頃「樹々亭記」を述作。
閑けさや樹々にきかれよ秋の雨
後年、この屋敷を吉田松陰の実父杉百合之助の妻滝子の父村田右中が文政8年(1825)手にいれ百合之助に贈った。松陰は天保元年(1830)8月4日、杉家の二男としてここに生まれた。 |
 |
Topへ |
菊ケ浜・女台場 |
|
女台場は幕末、下関で攘夷戦争が始まったことから、城下を自ら死守する機運が高まり藩による土塁築造の命で造られたもの。武士の妻や奥女中までが派手な装いで応援したことで「女台場」の名が由来するが正式名は菊ケ浜土塁。
山口県を代表する民謡「男なら」はこのとき歌われたもの。現在高さ3m、幅12mの土塁が50mにわたって比較的よく旧態を保っている。 |
 |
Topへ |
萩 城 |
|
萩城は慶長9年(1604)に毛利輝元が指月山麓に築城したことから、別名指月城とも呼ばれる。明治7年(1874)、天守閣、矢倉などの建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめている。城跡の構造をよく残し、園内には天守閣跡、梨羽家茶室、旧福原家書院、万歳橋、東園などの旧跡がある。また、「花江茶亭」は藩主の別邸、花江御殿内にあった茶室で明治22年に往時を懐かしむ品川弥二郎らが主唱してこれを買い取り、現在地に移築されたもの。ここで抹茶の接待を受けました。
利用時間:8:00〜18:30(4月〜10月)
8:30〜16:30(11月〜2月)
8:30〜18:00(3月)
休館日:無休
入館料 大人210円・小中学生100円
(旧厚狭毛利家萩屋敷長屋との共通券) |
 |
 |
Topへ |
|